再生して、楽曲名を当てられますか?
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音楽を聴くことは人生に豊かさと癒しをもたらします。pops も、Rock も、そして、 classic 音楽もよく聴いて、楽しんでいます。以下に、洋楽やクラシック音楽で私がよく聴いている楽曲のリストを掲載します。皆さんも聴いてみて下さい。
以下に、私が個人的によく聴くクラシック音楽の作曲家とその楽曲をいくつか紹介します。作曲家及び各曲についているコメントは、私の独断と偏見が多分に滲んでいます。
説明するまでもなく余りにも有名な、バロック期最後のオルガン奏者・作曲者である。バッハは一生を中部ドイツで暮らし、海外へは1度も出ていない。バッハは一生涯をドイツ・プロテスタント文化圏で過ごした。宮廷都市であったミュンヘン、ザルツブルグやウィーンなどに比べて、質実剛健で内省的な音楽文化が教会を中心として営まれていた。「音楽は神への捧げものである」とする音楽文化の中で育った。
この意味で、バッハの音楽はドイツ・プロテスタント文化の影響を強く反映している。バロック時代に最も偉大な作曲家であるバッハは、バロック音楽の最も典型的な作曲家ではないことになる。バッハの曲は通奏低音、対位法(フーガ) を用いた難解で抽象的な曲が多く、聞いていて感覚的に楽しめる曲は少ない。
バッハの曲は同時代人にとって余りにも難解で古臭さを与えたので、100年間も忘れ去られていたが、1829年にメンデルスゾーンによって100年ぶりに再演され、劇的な「復活」を遂げた。音楽文化後進国であったドイツにおいて、過去に偉大な音楽家が存在したことを発見した。ナショナリズムの隆盛と共に、バッハは「音楽の父」とされるようになる。演奏次第でまるでロマン派の音楽のように情熱的にも聞こえるので、大オーケストラを使った「ロマンチックなバッハ」として演奏されることが多かった。いずれにしても、この曲はバッハの受難曲みならず、歴史上で作曲された受難曲中最高の傑作であることは間違いない。
演奏時間が極めて長い(3時間を越える)ので、つまみ食いをしたほうがいいと思う。最後の部分だけでもいいでしょう。
バッハは6つのチェロ組曲を作曲しているが、それらの中で最も深遠な雰囲気を持つ曲と言われている。6曲の組曲は、それぞれが前奏曲(プレリュード)で始まり、アルマンド、クーラント、サラバンド、メヌエット(第3番・第4番はブーレ、第5番・第6番ではガヴォット)、ジーグの6曲構成となっている。
ハンブルクで音楽家としての基礎を確立した後、イタリアを経てイギリスに渡り、オペラ作家として大成功を収める。イギリスに帰化して、ジョージ・フレデリック・ヘンデル(George Fridrich Handel)と改名する。作曲の中心は50曲のオペラ、20曲を超えるオラトリオと声楽曲にある。バロック時代を締めくくる作曲家である。
オペラ《リナウド》、オラトリオ《メサイア》、《王宮の花火の音楽》などが有名である。
オラトリオの中の最高傑作である。第2部の最後にある、合唱「ハレルヤ」は誰でも一度は聞いたことがあるほど、有名な曲である。この曲の演奏時間は2時間近いので、シンフォニーの部分などをつまみ食いすると良いでしょう。
モーツアルトはザルツブルグで7人兄弟の末っ子として生まれている。5歳で作曲をはじめ、6歳で一流ピアニストになるなど、神童と呼ばれた。子どもの頃から父親と共に演奏のために、全ヨーロッパを旅行している。35歳で亡くなるまでに600曲を超える作品を残している。
小林秀雄の評論文「モーツアルト」から始まって、多くの音楽評論家が論じており、日本人はモーツアルトの音楽が大好きであるといわれている。
モーツアルトはあらゆるジャンルの作品を作曲しており、オペラ「フィガロの結婚」、「ドン・ジョバンニ」、「魔笛」なども有名である。
モーツアルトのピアノ協奏曲は第27番まであるが、第20番から第27番までが音楽的な規模と内容において、それ以前の協奏曲に比べて格段に進化していると言われている。この第20番は、緊迫感と不安な情感に始まり、深く豊かな叙情性と感性的な鮮やかさに満ちた後、暗く激しい情熱の爆発と共に結末を迎える。交響曲第40番と並んでモーツアルト作品の中で特別な位置を占める作品である。最後の作品ピアノ協奏曲第27番の方が音楽通には評価が高いが、個人的にはこの曲の方が好きである。
交響曲第39番、第40番、そして41番がモーツアルトの3大交響曲と言われている。また、モーツアルトは短調の交響曲を2曲作っているが、第25番と第40番が短調の曲である。この第40番は、小林秀雄がかつて評論「モーツアルト」論の中で「悲しみが疾走する」と評した、暗い情熱がほとばしる短調の名曲である。シューベルトが涙を浮かべながら聞き入ったという逸話も残る。がある。第25番も類似の情感を持つ曲となっている。
宮廷のテノール歌手であった父親の酒癖の悪弊で、若くして父親の代理を運命付けられた。20代後半で聴覚に異常をきたした後も、精神力で大作を作った。天才のモーツアルトと比較して努力のベートーベンとも言われる。
バッハ、ハイドン、モーツアルトの偉業を受けて、古典派音楽理論を自らの音楽作品で集大成した作曲家である。
ベートーベンが作曲した交響曲、例えば、第5番「運命」、第6番「田園」や第9番はあまりにも有名である。
静かにささやきかけてくるように始まる、幻想曲に近いソナタ形式のピアノ曲である。ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」及び第23番「情熱」と並んで3大ピアノ・ソナタと呼ばれている。
ベートーベンが残した唯一のヴァイオリン協奏曲である。幸福な青年期のベートーベンの情感が安らかで神々しい美しさを湛えた旋律として表現されている。交響曲第4番及びピアノ協奏曲第4番とも共通する優美にして柔和な叙情性をもっている。
ベートーベンのピアノ協奏曲中最も古典派的な洗練さを示している作品。ピアノのソロによる第1主題の演奏から始まる。弦楽合奏による旋律とピアノの旋律とが交互に現れ、哀愁を湛えながら、対話を繰り広げる。きらびやかなカデンツァで終わる。ピアノの美しい音を奥深く雄大な管弦楽合奏が包み込んで進行する作品である。
家が貧しかったため、国立コンヴィクト学校へ入学する。教員を退職して作曲に専念するが、貧困との闘いであった。31歳で若くして他界するが、600曲を越す歌曲を残す。シューベルトと言えば、歌曲の王といわれるほどである。歌曲集「冬の旅」は有名である。交響曲を第1番から第9番[グレート]まで合計で8曲作曲している。その中で交響曲第8番[未完成]の美しい旋律は余りにも有名となっている。また、自身がバイオリニストであったことからも、多数の室内楽の作品を残している。
シューベルトは19歳(1816年の春)のとき、3曲のヴァイオリンとピアノのためのソナタを作曲した。ニ長調D.384、イ短調D.385、ト長調D.408のバイオリンソナタがこれにあたる。
これらは同時代のベートーベンよりもむしろモーツアルトの様式から強い影響を受けている。モーツアルトのように、非常にみずみずしい感性が表現されている作風となっている。作品D.385はその中で最も、シューベルト的な特徴が萌芽しているバランスが取れた作品であると思う。
シューベルトは生前の最後の9年間に室内楽の最高傑作の多くを作曲している。1819年に書かれた5重奏曲「ます」はその最初の作品である。ベートーベンが哲学的な後期の弦楽四重奏曲を作曲していた時期と重なっている。シューベルトの作品はベートーベンと異なり、ロマン的な感情の濃い作品である。シューベルトは[死と乙女]の曲を作曲中に病気に罹り、死を直視する経験から、オペラ「死と乙女」の重々しい旋律を第2楽章の主題としたと言われている。ロマン的な情感を秘めた旋律から始まり、死神の出現を予期させる不気味な第2楽章へと続く。
シューベルトは死の1年前に二つのピアノ三重奏曲を作っている。変ロ長調作品D.898と変ホ長調作品D.929とがそうである。シューベルト室内楽の最高傑作を形成している。シューマンは変ロ長調の作品を非常に高く評価し、第1楽章が最も素晴らしく、優美で、親密で、清純なものであり、総じて、受動的で、女性的で、叙情的な作品であると指摘している。2番目の作品D.929の方がシューベルトの感情をよりよく表現しており、厳粛さが漂っている。第2楽章でチェロとピアノによって交互に奏でられる旋律ががとても印象的である。
メンデルスゾーンは裕福なユダヤ人銀行家の家に生まれ、音楽のみならずスポーツや絵画にも多大の才能を示した。6歳のとき母親からピアノ・レッスンを受け、その後専門家から作曲などの教育を受ける。12歳までにピアノ4重奏曲を含めた多数の作品を作曲している。14歳の時には、自分のオーケストラを所有し、その演奏のための作品を作曲した。モーツアルトの再来といわれた。しかし、モーツアルトと同じように、38歳の若さで他界した。
ベートーベンのヴァイオリン協奏曲及びブラームスのヴァイオリン協奏曲と並んで3大ヴァイオリン協奏曲の一つに上げられている。メンデルスゾーンの感性的で美しい旋律が表情豊かである。
ピアノ3重奏曲第2番と並んでメンデルスゾーンの室内楽の傑作作品といわれている。バッハやベートーベンの模倣を強く意識しており、例えばベートーベンのコリオラン序曲の影響を強く受けている。ロマンチックな旋律が特徴的である。
20歳のショパンが初恋の女性に対する恋愛の情感を込めて書いた曲といわれ、初々しいロマンチシズムとみずみずしい感情の発露が現れている。まさにショパン流の、繊細でロマンティックな作風となっている。
余りにも有名なショパンの名曲ですね。ピアノ・リサイタルでは必ずと言って良いほど、演奏される曲です。ピアニストの力量が自ずと出てしまいます。
ショパンの夜想曲は全21曲で、作者が20歳の時から晩年に至るまでほぼ均等に創作されている。ほとんどが三部形式で、明瞭な中間部を持つものか、ロンド形式のものかに分けられる。ノクターンはラテン語で夜をさすNoxから派生し、修道院などで行われる晩祷のことを示す。夜想曲第1,2,3番が作品番号9に属して、この曲は2番目の作品ですが、夜想曲21曲の中で最も有名なものです。
ピアノと弦楽四重奏との組合せによる作品は音楽史で最初の作品である。シューマンの室内楽の最高傑作の一つである。第2楽章の導入部から始まるチェロのソロによる何かを予期させるような悲しみを湛えた神秘的なメロディーの情感と第3楽章の躍動的なスケルツオの対比が印象的である。
シューマンは初期にピアノ曲のみを作曲していたが、31歳のときに妻クララのために、ピアノと管弦楽のための幻想曲を、現在の第1楽章に当たる部分を作曲した。骨の髄までロマンチストであったシューマンの情感と繊細さが一体化した曲想は美しい。
1849年から1853年(不幸な死の3年前)にかけて、シューマンはピアノと様々な楽器の組合せによる室内楽曲を作曲している。チェロとピアノ、ヴィオラとピアノ、ヴァイオリンとチェロとピアノ、ヴィオラとクラリネットとピアノの組合せによる曲を残している。その中で、この曲はもっともシューマンらしい、ロマンチシズムが遺憾なく発揮されている詩的な曲である.叙情的に美しい旋律が印象的である.
コントラバス奏者の父親からピアノの手ほどきを受ける。家計を助けるために、13才頃から酒場などで演奏した。20歳のときに、シューマンに才能を見出され、シューマン家に出入りするようになる。ロベルト・シューマンの死後、クララ・シューマンと40年を超える交際を続けるが、結婚はしなかった。
ベートーベンを超える交響曲を作曲することを目指していたので、23年の時間をかけて、43歳のときに交響曲第1番を完成する。ベートーベン交響曲第10番と言われるほど評価が高い。この意味で、ブラームスはベートーベンの後継者だとも評される。
ブラームスはピアノ四重奏曲を3曲(第1番ト短調作品25、第2番イ長調作品26、第3番ハ短調作品60)、ピアノ五重奏曲を1曲(ヘ短調作品34)、そしてピアノ三重奏曲を3曲(第1番ロ長調作品8、第2番ハ長調作品87、第3番ハ短調作品101)残している。この曲はピアノ4重奏曲第1番と同時期に作曲されている。第1番に比べて、より魅力的でより洗練されている。ドイツ的幻想曲風の旋律を多用しつつ、若干憂鬱なメロディーが特徴的であるが、最終章ではブラームスにしては生き生きとした曲想となっている。
暗く重いと言われているブラームスの曲にしては軽快で美しい旋律を用いている。第2楽章の始めに、オーボエが長く美しい旋律を歌うことで有名でもある。親友の大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムに助言を得て作曲した。
ホルンそしてピアノの優しい旋律で始まり、管弦楽による勇壮な主題が演奏される。ピアノで登場する軽快なリズムのロンド形式で終わる。ブラームスのイタリア旅行の印象を反映して、明るい幸福感があふれている。曲の印象は交響曲の色彩を強く感じさせる。ベートーベンのピアノ協奏曲第4番と並んで素晴らしい名曲である。
ペテルベルクの法律学校へ行った後、法務省に勤めたが、音楽への情熱に駆られて、仕事を止め、音楽学校で改めて音楽の勉強をし直す。その後、モスクワ音楽院の教師をする。繊細で、内気で、結婚に失敗する。自殺未遂も起こしている。
チャイコフスキーは、バレエ音楽「くるみ割り人形」、「白鳥の湖」、眠れる森の美女」などで余りにも有名である。また、ピアノ3重奏「偉大な芸術家の思い出」や交響曲第6番「悲愴」などの作曲でも有名である。
チャイコフスキーは3つのピアノ協奏曲を作曲しているが、第2番と第3番はそれほど魅力的な作品ではない一方で、この第1番は豪華絢爛な魅力にあふれている。ピアノ協奏曲の数ある名曲中の名曲に上げられる。
モスクワ音楽院初代院長で、名ピアノストであったニコライ・ルビンシテインに捧げるべく作曲された。感傷的に、悲しい情緒にあふれている。チェロが歌い上げる第1旋律はいかにもノスタルジーをこめた哀愁を湛えている。
モーツァルトと並び称される神童で、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている。また、10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンたちの作品の演奏会を開き、16歳で最初の交響曲を書きあげている。1848年に13歳でパリ音楽院に入学して作曲とオルガンを学ぶ。1861年から65年にかけてニデルメイエール音楽学校で生涯唯一の教職に就き、フォーレ、アンドレ・メサジェ、ウジェーヌ・ジグーなどを教える。1871年に、フランク、フォーレらとともに国民音楽協会を設立し、フランス音楽の振興に努めた。モーツァルトとハイドンの影響を受けて育ったサン=サーンスは、バッハやベートーヴェンの作品にも精通し、若い時期にはメンデルスゾーンやシューマンにも影響を受けている。
チェロ協奏曲において全3楽章が切れ目なく演奏されるという手法は、既にシューマンの協奏曲で行われているが、サン=サーンスの場合はかなり徹底していて、全体が3つの部分からなる単一の楽章となっている。チェロ協奏曲第2番もあるが、チェロ協奏曲というときはこの曲を指す。
サン=サーンスは、5曲のピアノ協奏曲を作曲しているが、第2番は第4番と並んで、サン=サーンスが作曲したピアノ協奏曲の中では最も人気が高い作品となっている。1868年に作曲され、5月13日にサン=サーンス自身のピアノ、友人のアントン・ルビンシテインの指揮によってパリで初演された。ルビンシテインはこの演奏会が指揮者としてのデビュー公演だった。ショパンに似た優雅な曲風です。
この曲は、カミーユ・サン=サーンスの最後のヴァイオリン協奏曲で、ロマン派音楽における重要なヴァイオリンと管弦楽のための協奏的作品の一つ。「序奏とロンド・カプリチオーソ」や「ハバネラ」と並び、多くのヴァイオリニストに頻繁に演奏されてきた。1880年に完成しているので、音楽的な充実度は増し、旋律の創意や表現の巧みさも向上していて、最終章の秀麗な終結は極めて特徴的です。
メデルメイェーメ音楽学校(École Niedermeyer)で11年間にわたって音楽教育を受けるが、20歳のときに学校を去る。パリのオルガニストとなり、フランスにドイツに負けない正統的な器楽文化を作るために、フランクやサン=サンーンスと共に国民音楽教会を設立する。サン=サンーンスの楽曲の曲風とは対照的で、よりフランス的な繊細さを持つ曲想になっています。1905年にパリ音楽院の院長となる。歌曲を多数作曲し、レクイエム作品48が有名である。
18歳のフォーレが音楽学校のコンクールで1等賞を獲得した作品である。柔和な和声、古典的な均衡美を持つ自然な感じの曲想である。
古今《レクイエム》の中で、モーツアルトのレクイエムと並んで、最高傑作と言われている。洗練された旋律と美しいコラールと共に、天国のキリストの気持ちを歌い上げる最終楽章で終わる。
歴史的には15,16世紀にイタリアを中心として花開いた文化、古代ギリシャ文化の復興、ヒューマニズムと科学的精神の登場、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロといった万能型天才が活躍した時代である。このルネッサンス時代に繁栄した音楽を一応ルネッサンス音楽と言うことにする。
ルネッサンス以前の音楽は、神の国の秩序を模倣する超越的な秩序の感覚的現われとしての中世音楽であった。そこでは、音楽は音の響きの美しさを楽しむものではなく、哲学や数学に類するものとされた。ルネッサンス音楽において初めて、現代の我々が音楽と考えるような音楽が登場した。15世紀に登場する音楽は、おおらかな旋律と暖かい響きを特徴とする無伴奏の宗教合唱曲である。フランス北部・ベルギー地方から多くの作曲家が登場する。これをフランドル学派という。ギョ−ム・デファイ、オケゲム、ピエール・ド・ラ・リュー、ジョスカン・デ・プレがそうで、ミサ曲とモテット曲を得意とした。グレゴリオ聖歌を基礎としてその上に旋律を重ねる技法ではなく、定旋律を低音部に配置することから開放され、一種のカノン(通模倣)の形式をとるようになる。
16世紀なると、音楽史の主導権がイタリアの作曲家に移る。これ以後バロック期まで、イタリアはヨーロッパ音楽の中心地となり続ける。代表的な作曲家は、ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ、ジョバンニ・ガブリエリなどである。パレストリーナの対位法による無伴奏宗教合唱曲はカトリックの宗教音楽の理想とされた。ガブリエリはベネツィアで活躍したので、ベネツィア学派といわれ、有名なエコー効果を使った曲を作曲している。ベネツィア学派はバロック以後の作曲家にまで大きな影響を与えたと言われる。
16世紀音楽における音楽技法上の特徴の一つは、和音が旋律を支える柱になること、つまり和音を重視することの発見である。ジョスカンの無伴奏合唱曲では、すべてのパートが同一の旋律で同一の歌詞を歌う。異質な響きのぶつかり合いが排除されていて、均衡美が支配している。ベネツィア学派は「対照から生じるダイナミズム」を器楽伴奏によって導入した。
バロック音楽はクラウディア・モンテヴェルディの作品《マドレガーレ集第4巻》が刊行された1603年頃に始まり、バッハの死(1750年)で終わると言われる。
この時期は絶対王政の全盛期で、バロック音楽は王侯貴族の宮殿で演奏されることを主目的に発達した音楽である。音楽の主なジャンルは、受難曲、オラトリオ、カンタータ、ミサ曲、合奏協奏曲、舞踏組曲、オペラなどであった。バロックとは「いびつな真珠」と言う意味で、ルネサンス期に発達した音楽、つまりルネサンス的な意味で調和した均衡美を目指す音楽とは対照的に、英雄的でぎらぎらした、壮大な芝居がかった、きらびやかな豪華な音楽を表現している。
バロック音楽はオペラの登場と共に始まる。モンテヴェルディのオペラ《オルフェロ》が最初である。オラトリオは宗教的題材を用いた舞台のないオペラ、受難曲はイエス・キリストの受難を描いた福音書の物語を主題にしたオラトリオであるとも言える。
バロックは通奏低音と協奏曲の時代でもあるといわれる。通奏低音とは、曲の最初から最後まで一貫して支えていく低音のことで、オルガンやチェロ、チェンバロによって演奏される。通奏低音の演奏者は、低音部の楽譜を見ながら和音を即興的に補填しつつ演奏する。旋律はこの低音の上に乗せられる。通奏低音の上に旋律を載せるという技法は、声楽や合唱曲のみならず、トリオ・ソナタ、協奏曲、管弦楽曲などあらゆるジャンルの作曲スタイルであった。
また、この時代に大量の協奏曲が作られただけでなく、バロックの音楽ジャンルが協奏曲原理、つまり、音色や音量や楽想の点で、異なる複数の音響源を対比させ、競わせる手法が発達した。
バロック音楽を考えるとき、カトリック文化圏とプロテスタント文化圏の地域的偏在は重要な意味を持つ。バロック音楽は華やかな宮廷文化と密接に結びついている。そして、宮廷文化したがって宮廷音楽が栄えたのスペイン、フランス、イタリア、オーストリア(ドイツ南部)などのカトリック文化圏においてである。これに対して、オランダや北東ドイツはプロテスタント文化に属し、マックス・ウェーバーの指摘通り、信心深く、勤勉で倹約家の市民階級が多数を占める文化が支配的であった。この意味で、バッハの音楽をバロック音楽として理解するときには相当の難題が起こる。
古典派音楽は大バッハの死後以降、大バッハの息子たちの世代から、ベートーベンが後期交響曲を創作していた1820年頃までに作られた音楽をさす。
この時期は、産業革命が進み、人々の収入や暮らしも向上し、市民階級が社会的に大きな影響を持つようになった。バロック期までは、音楽は王侯貴族や教会のものであったが、次第に、市民階級が音楽を楽しめる時代となってきた。作曲家の社会的な地位も変化した。従来では、作曲家は王侯貴族の求めに応じて作品を作り、それを宮廷などで演奏した。切符を買えば誰でも自由に好きな音楽を聴ける演奏会制度が発達し、印刷技術の進歩と共に楽譜印刷が発達した。印刷された楽譜を購入すれば、誰でも家庭でその作品(室内楽)の演奏を自ら楽しむことが出来る。作曲家は自分の作品の独創性や芸術性を広く世に問うことができるになった。演奏会で主役となるジャンルは交響曲であり、私的家庭内で演奏されるジャンルは弦楽四重奏曲に他ならない。周知の通り、ウィーン古典派の3大巨匠ハイドン、モーツアルトそしてベートーベンはこれらのジャンルに属する曲を多数作曲している。
古典派音楽とバロック音楽を明確に分ける作曲技法上の差異は、対位法の廃止である。古典派音楽は通奏低音をも完全に廃止し、低音部ではなく旋律が曲をリードする。旋律が重々しい通奏低音の足枷から解放され、自由に能動的に羽ばたくことができるようになった。古典派の音楽では、旋律の音程やリズムは滑らかで、歌いやすく、魅力的な起伏があり、フレーズがはっきりしており、誰にでも歌いやすい。
古典派音楽の時代に生まれた重要な音楽形式はソナタ形式である。古典派以前には、ソナタ形式は存在していなかった。
バロック期に作られたオペラは「オペラ・せりア」と言われるジャンルのものであって、それは神話や古代社会を舞台とするもので、登場人物は常に王侯貴族である。最後は神の加護によってハッピーエンドに終わる。古典派の時代になるにつれて、オペラはモーツアルトに代表されるとおり、喜劇オペラが登場し、主役や登場人物が庶民に変貌する。形式もソナタ形式を備えるようになる。
ロマン派音楽は、1820年代から第一次世界大戦までの間に活躍した作曲家が作曲した作品のことを言う。ロマン派の作曲家が大量に登場した時期が、ドイツ・ロマン派と言われる文芸時代の時期と重なるのでこの呼び名がある。
ロマン派の時代は、西洋音楽史の中で最も魅力的であり、大量の「大作曲家」が出現し、偉大な個性の百花繚乱の時代である。馴染の名前を並べただけで、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、リスト、ワグナー、ブラームス、ベルリオーズ、スメタナ、ドボルザーク、チャイコフスキー、等々。
この世紀は音楽の市民化の流れが加速し、完成した時代でもある。音楽のある暮らしがハイソの仲間入りをしたと感じられる時代、人々が競って音楽と言う誇りを求め始めた時代である。しかし、19世紀は工業化社会と化学発明の時代であり、社会はどんどんと無味乾燥化,神の存在さえ疑わしくなってくる。こうした時代にあって、ロマン派音楽は人々の枯渇した精神と感情の癒しを提供する役割を担う音楽であった。
人々に夢と希望と感動を与えてくれるロマン派音楽は、旋律と和声という構造から見ると、旋律に関しては「胸の奥から搾り出す吐息」と形容される身振りが特徴となる。古典派までは、和声のほとんどが「ドミソ」や「シソレ」であったが、ロマン派では、半音階を多用する。和声それ自体が音楽表現の主役となり、ロマンチックな気分が響きに託される。
ロマン派音楽は、1910年代に、シェーンベルグやストラビンスキーによる新しい音楽技法の登場と共に崩壊を始め、プロコピエフやショスタコービッチらによって止めを刺される。
これ以降、西洋音楽は難解で抽象的な不協和音を多用する現代音楽と言う名の前衛音楽になっていく。